生産者紹介

 高橋 博氏 相談役                     

【自然農法成田生産組合のモットー】

 『自然の土、自然の種子、そして、それを育むことができる農業者の育成に渾身の努力をいたします』

 私の所属する自然農法成田生産組合が目指したもの。それは、生産(つくり手)・流通(つなぎ手)・消費(くらし手)が三つ巴となることだった。

 理想の実現に向けて奮闘した30年は自然農法成田生産組合にとって何をもたらしてくれたのか? 高橋 博さんを訪れてたずねてみた。


■自然農法成田生産組合の歩み
パートナーでもあり、自然の先生でもある「土」  自然農法成田生産組合の歩みは、今から30年以上前の1978年に遡ります。発起人である高橋博さんが父親から農業を継ぎ始めたころは、食べ物を作る農業ではなく、化学物質に依存した工業化された農業の現実がありました。

 次第にそんな農業のやり方に高橋さんは疑問をもつようになります。自分の家では食べないような農産物を売ってお金を得ることに「こんな農業じゃ未来がない。こんな罪なことはない。これならば外に働きに出たほうがまし」とまで思うようになります。

 農業を生業とする以上、自分で納得できる農業がやりたいと様々な情報を集める中で自然栽培との出逢いがありました。その当時の心境を高橋さんはこう語っています。

 「これはすごい!これしかないと思った。このやり方なら一生続けられる。何世代にも伝えるに値する農業だ!」

 そのときの感動が、30年以上たった今も高橋さんの歩みを支える原動力となっています。


■試行錯誤から始まった自然栽培
大切な仲間たち  しかし、新たな農業への取り組みは決して順調ではありませんでした。自然栽培としての考え方はあったものの、確立した技術もなく暗中模索で取り組んでいた生産者がほとんどだったからです。

 とりあえず野菜は出来ていたものの、形や収穫量の面では一般栽培とは比べ物にならなかったそうです。

 自然栽培に農薬や化学肥料、糞尿堆肥などは使われていませんでしたが、落ち葉などの植物性の堆肥は導入されていた時代でもありました。植物性の堆肥ならいくら使ってもいいと考えられていた。こうした自然栽培に対する捉え方も各生産者が苦しんでいた原因の一つでした。

 「土づくり」ではなく養分供給としての目的で堆肥を使っていたのが主だったのです。高橋さんが取り組み始めた当初、堆肥を作るために川の土手に生えるカヤなどの収集に奮闘したものの必要な量の多さに「これでは堆肥が足りなくなるときがくる」と、限界を感じるようになりました。

 誰にでも出来る農業を確立したかった高橋さんは、この自然栽培を全国に広げることを前提としたら、このやり方では普及が難しいと判断したのです。

 
■新たな栽培方法への転換

 そこで考えたのが麦の導入でした。畑の外から持ち込むのではなく自分の畑で生産することが出来、土づくりに使える方法を考えたのです。[この時点では、いわゆる"肥毒"(過去に使用した肥料や農薬で土の中に残っているものをいう)を植物で吸い上げるという考え方には至っていませんでした]しかしながらここでも困難はつきまといます。

 当時の麦刈り脱穀はすべて手作業。非常に手間の掛かる作業です。1年間続けてはみたものの「普及させていくには」という壁にやはりぶつかってしまいます。

 この当時、千葉県の各地域に分散していた生産者たちは仲間もいない中で苦しんでいました。お互いに学び合える場所をつくり技術を向上したかった高橋さんは、このとき(1981年)任意組合としての自然農法成田生産組合(組合員16名)を発足させます。"志あれば必ず実現できる"というように周りからの援助(麦刈りのコンバインや乾燥機の貸与)も含め、作業場、事務所などの施設もこのとき一気に作り上げてしまいます。事務所の材料調達から設営、すべて手作りでした。

 「お金が無かった分、この共同作業ができ、皆の気持ちがひとつになった」

 自然農法成田生産組合の固い結束は、このときの共同作業があったお陰だと高橋さんは言います。


■ 有機栽培の普及と、動物性堆肥の誘惑

 インフラ整備も徐々に進み、各地域に自立型の流通センターなども徐々に出来始めた1995年頃。組合員の増員もあって販売先の確保として一般流通への販路を築いていくことになります。

 世の中が、「安心・安全」を急速に求めた時代でした。更に2000年。時代はJAS有機認証の導入期。世間の動向と共に、JAS有機であれば黙っていても野菜は売れるようになっていきました。努力しなくても売れる、売れればいい。世の中の大きな変化は自然栽培の世界も変えていくことになります。

 高橋さんの仲間でも、動物性堆肥の使用を認める流れが出てきました。多いときで50名ほどまで膨れあがった組合員も動物性堆肥を使い始めたり、様々な理由で自然栽培から離れていきました。そんな組合員を高橋さん一人の力では留めることが出来ず、ただ見届けるしかなかったといいます。

 とても残念なことですが農業経営を考えたとき、止むを得ない判断であったのかもしれません。自然栽培は農家にとって収穫量が上がらないことがあるリスクを抱えた栽培です。技術的なものは当時まだ確立されていませんでしたから。

 高橋さんは言います。

 「色々な理由で自然栽培から離れていった人たち、それも意味があること。逆にその人たちが、やってみせてくれたやり方を見ることで色々なやり方の結果を学ぶことができたし、ここまで歩みを続けてこられたのもその時々でいい仲間に助けられたから。一人ではここまで続けてこられなかった。どんな行動でも、しっかりとした「節」になることでしょう。 」

 組合設立10年という節目で高橋さんは組合設立10年目の式典で、こんな想いを綴っています。


 「10年というひとつの節を迎え振り返るとき"よくまあここまできたものだ"というのが組合はもちろん私自身の実感だ。というのはただ流れてきた10年ではなかったからだ。紆余曲折、並みの歩みではなかった。何回挫折すると思ったことか。

 しかし、ここまでこれたその力は何なのか?いうまでもない組合員一人一人の自然栽培にかける思いがそうさせたのだ。かえりみれば、すべてのものを手作りしてきた。"やれない"と思えばできない、"やれる"と思えば出来てしまった、やってのけてしまった。

 素晴らしい力である。そして忘れてはならないのが、そこに陰となり日なたとなってくれた多くの人たちがいたこと、またいることだ。

 一人では出来ないのに、それぞれの特徴や個性を集めるとすごいことが出来てしまうものだ。組合は10年という大きな節だが組合員1人1人には様々な節があると思う。

 ある人は3年の節、またある人は1日の節、またある人は一瞬の節というように、いずれにしても節は数が多ければ多いほど強いものになるでしょう。雪が積もって竹は押し潰されてもときがくると跳ね返すように。

 これからも永遠の農業であるだけに、明日からまた組合員1人1人に様々な節が与えられることでしょう。その節々を大事に育てていきたいものです」

 自然農法成田生産組合  高橋 博


■ 苦しみの20年から、技術確立までに10年

 フルーツのように甘い、「フルーティーニンジン」!  現在の組合員数は11名(2012年11月現在)。組合設立から流通センターの建設、事務所の建設、販売先の確保までの土台を作った20年、自然農法の技術を確立させるのに更に10年の年月。一言で30年といってもそれだけでは片付けられない重みがあります。

 「とにかく苦しんだ20年だった。すべてが手探りだったからね。その頃は、肥毒の事実も確認されていなかったし、技術も確立されていなかった」

 高橋さんのこの言葉から当時の困難だった歩みが伺えます。

 今でこそ自然栽培生産者セミナーなどを開催するまでになりましたが、今の技術が確立するまでこの10年何度も勉強会を積み重ねて培った技術だったのですね。

 「1980〜90年代は、みんな気持ちだけで持ちこたえていたところもあった。でも技術を模索したこの10年で確信を得られるまでになった。これも組合員1人1人の努力のお陰。組合員との出会いは、お金では買えないかけがえのない宝物を手に入れたと思います」

 
真っ白に輝くダイコン。その肌はまるで絹のよう  

■ これからの人に伝えたいこと

 とにかくこれからは脱落者を出したくないと高橋さんはおっしゃいます。 境遇が変われば人はその環境に適応してしまうもの、それが悪い環境であってもです。確かに人間は環境に左右されてしまうものです。

 何かひとつのことを信じて取り組むことがいかに難しいか、この自然農法成田生産組合の歩みをみても分かる通り、何かを成し遂げようとする過程では様々な困難がついてまわります。しかし、逃げることなくそのものと向き合えば必ず得るものが大きいことも教えてくれています。

 流されて生きることが悪いのではなく、常に原点に帰ることが大切という高橋さん。30年前に感じた感動を今も忘れることはないといいます。


 「この自然栽培を通して私が学んだ原理は農業だけでなく、さまざまな人間関係においても活用することができました。過去を振り返ってみれば並の歩みではなかったことも事実です。しかし今となってみればこの農法が自分を育ててくれたと思っています。

 一言で30年といってもそれだけでは片付けられない年月の重みがありますが、この自然栽培は一生かけて取り組む価値のあるものです。そして、そのためには生産者だけではなく、流通と消費者が三位一体になって取り組む必要があります。

 今まで描いていた生産・流通・消費の密着した形がやっとできてきました。しかし、タネを播いてすぐに実を結ぶことは自然界にはありえず、そこには育てるという時間が必要です。

求める消費者の方々の加速的な増加が予測できる中、作り手の育成を一日も早く、しかし慌てることなく推し進めなくてはなりません。土を育み、種を育みながら1日1日を信じ共に歩んでいけることを願っています」

 この30年という自然栽培の歩みは、農薬や肥料がなくても出来ることを証明するための期間だったと思います。

 土をつくる時間、タネをつくる時間、人をつくる時間は、決して1年や2年ではすみません。自然農法成田生産組合が30年かかっても自然を先生とし学びを続けてきた姿勢が全てを物語っていると思います。

 「とにかくこの自然栽培は時間のかかる取り組みです。人参のタネが固定されるまで8年かかったように、人間の時間軸では計り知れない世界なのです。だからこそ自然順応、自然規範、自然尊重の姿勢で自然と向き合っていかなければなりません。そして、こらからの人には今まで実践してきた人の失敗を繰り返さず、新たな挑戦の中でいい意味での失敗、経験を積んでいただけたらと思っています。」

■ 普及会の方へのメッセージ
 ここ数年、全国を歩いてみて、改めて確認できました。あまりにも全国の自然栽培農家それぞれが孤立して、試行錯誤をしていました。そうした状況を踏まえて、もう一度、50年ぶりの“タネまき”が始まったのです。(もう過去の失敗は許されず、その“タネまき”の“ウメ”をして、自然栽培の取り組みを確実に広げなくてはならない、そしてまた土と作物の偉力が引き出される自然栽培という農業を育てるために)この普及会は発足しました。  
 これから自然栽培をはじめる農業者は、二度と先人が味わった過去の失敗をする必要はありません。これまでの経験を今後の活動の糧として、日本はもとより大きくは世界にこの農業を広げていく、それがこの会の目的です。永遠に永続可能な農業を目指し、暮らし手である生活者も、つなぎ手である流通業者も集っています。
まさに三位一体となって、新たな時代の農業・食を築きあげていきましょう。